09、裏切りは突然に








 次の日。いつも通りに城を抜け出し、殺生丸のもとへ行った。だが、そこには誰もおらず静かな滝の音しかしなかった。殺生丸は傷を治しどこかに行ったのだ。どこか感じた寂しさはいつのものかわからないが、は瞳を閉じ踵を返した。
 いつもの道がやたらと暗く見えた。
 城に戻り、そのまま蔭刀の部屋に行く。
 襖を開きはその場に立ち尽くした。
 これは、誰だ。黒く長い髪を扇のように広げ、俯せで倒れているのは。
 ここまで来る間、城の様子や家臣、女中に変わった様子はなかった。それに、が出かける前はこんなのではなかったというのに。この部屋、蔭刀の部屋だけは違った。
 部屋に一歩入れば、鼻につくすさまじい臭いに口を塞いだ。
 血の海に倒れている男とは別に部屋の中心では、爪を血で濡らした彼がいた。
「……せ、殺生丸……」
 彼が人を殺したのか?彼が、何故。
 足元に倒れる男の顔を見た。
 黒い髪が頬にかかり、瞳は見開かれ、肌は雪のように白い。それはまさに、を愛していると言った蔭刀であった。
 殺生丸が蔭刀を殺したのだ。
 叫び声も涙もでてこなかった。
 ただ、すでに絶命している蔭刀に近づき膝の上に彼の頭をのせた。肌は、すでに冷たかった。微かに開かれている唇は紫色に変化していたが、開かれている瞼はどうにかして閉じることができた。その時だ。殺生丸が動く気配がした。
「……この殺生丸の爪を汚すとは、……卑しい人間め……」
 ああ、この声はまさに彼だ。

「なんで……こんなことを……」

 声が震えるが、涙はでてこない。現実味がわかないからだろうか。
「なんで、……」
 の問いに殺生丸が短く笑った。
「暇潰しだ……。私は人間が嫌いなのだ。……一人や二人殺しても変わりなかろう」
 それだけのために、蔭刀を殺したのか。
 目まぐるしく回る頭、焦点のあわない目線。
 殺生丸が朱く血で濡れた指を鳴らし近づいきた。は逃げなかった。逃げようとすら、思わなかった。自分を優しく包みこみ、愛を囁いてくれた蔭刀はもういない。このまま、彼の後を追うのもいいだろう。
 殺生丸が近づく。
 一瞬あり日頃の蔭刀の姿が脳裏に写り、は目を見開いた。
 顔をあげれば、殺生丸の爪が迫ってきている。そう言えば、彼の爪に襲われるのは二回目だ。思わず、固く目を閉じた。
 鈍い音がし、生暖かい液体が顔に飛んできた。痛みはない。本当に自分は死んだのだろうか。
 恐る恐る目を開ければ、殺生丸の姿が見えた。そのまま、殺生丸がに近づいてくるとしゃがみ込んだ。
 彼の視線の先を見る。
 左腕だ。蔭刀の左腕を殺生丸は斬ったのだ。あまりの生々しさに、思わず吐き気が起こった。
「この、左腕をどうすると思う……?」
 いまだに血が滴る左腕を手に持ち殺生丸が言う。
「この男の左腕は、次の殺生丸の左腕になるのだ……」
「……ッ」
 なんという外道だ。は奥歯を噛み締めた。
「……人間が嫌いなのに、なぜ蔭刀さんの左腕を使うのッ!」
 彼の体一つ、触って欲しくない。立ち上がろうとしたが立ち上がれなかった。どうやら、自分でもわからないぐらいに恐怖で震えているのだ。
「ふっ、知れたことを……。この殺生丸は純粋なる妖怪でな……犬夜叉の持つ鉄砕牙の結界に拒まれてしまう。この左腕は犬夜叉の鉄砕牙に斬られ、なくなった……。なら、人間の腕を使うまでだ。人間の腕を使えば、鉄砕牙の結界に拒まれることはないだろう。そして、鉄砕牙を手に入れる……」
「ッ……そんなことのために……!」
 悔しさのあまり、畳みに爪をたてる。そんなの様子を殺生丸は見下している。
「……愚かな女だな……。この殺生丸の命を救った代償に、愛しい男を亡くすとは……」
「……ッ」
 自分は愚かな間違いをしたのだ。あんなに、人が怖れている妖怪などを助けたばかりに、愛しい蔭刀を失ってしまった。奈落の忠告をきちんと聞き、妖怪を助けるなどしなければよかったのだ。
 馬鹿なことをした。
 自分の不甲斐なさが悔しくてしかたない。

「……殺生丸!私、お前を許さない……ッ!」

 は立ち上がった。
「愚かな女だ……。お前も男とともに死ね……!」
 殺生丸がそう言ったとたん。
 部屋の隅から、蜘蛛があらわれた。何千匹もいるだろうという蜘蛛はと蔭刀の死体に近づいてくる。
 あまりのおぞましさには震えあがった。
 蜘蛛は床を這い、蔭刀の死体に近づき体の上をはい上がる。何千という蜘蛛がはい上がり、とうとう蔭刀の姿は見えなくなってしまった。
「人喰い蜘蛛だ……。肉を喰い、内臓に卵を産み落とす……くくっ」
 殺生丸が楽しそうに笑う。
 徐々に蜘蛛は増えていく。
 悍ましさのあまりは駆け出した。
 あんな蜘蛛に殺されたくはない。庭に下り、浸すら走る。後ろから蜘蛛が近づいてくるのがわかる。
 木々を抜けると目の前に川が流れていた。おそらく滝壺から流れ出す川だろう。後ろを振り返れば、大量の蜘蛛がに飛び掛かろうと身構えている。
 背水の陣どころではない。
 蜘蛛と戦うための武器もないのだ。
 迫ってきた蜘蛛が、に飛び掛かってくる。
 は威をけっして川に飛び込んだ。
 思ったより流れが速い。長い着物は水を吸い込み、を川の流れに飲み込もうとするのだ。

(蔭刀さん……ッ!)

 は今はいない、蔭刀を思った。
 死ぬかもしれない。
 でも、蜘蛛に殺されるくらいなら、こんな死にかたもいいかもしれない。
 そんなことを思ってしまった。





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20071030