07、奈落の言葉








 今日は驚いたな。
 は滝壺の帰り道にふと思った。
 まさか、あの妖怪が人間に化けるなど思わなかったが、意外に綺麗な顔で驚いた。より数倍、綺麗だと悔しいながら思ってしまう。
(そうだ……名前)
 名前を聞いていなかった。あの妖怪に名前を聞かれるとは思っておらず動揺してしまったが、も妖怪に名前を聞けばよかった。妖怪にも名前はあるだろう。まぁ、明日もあの滝壺に行くのだから、彼の名前を聞こう。きっと、ぼそっと教えてくれる。
 何かとても心が弾む。嬉しい、という感情が心から溢れる。
 それにしても、に名前を聞いた直後、彼は何故あんな顔でを見たのだろう。何かを探る表情で。

「……様」

 誰もいないはずの山道で名前を呼ばれの足は止まった。
 道から外れた木々の間から、狒々があらわれたのだ。
「奈落……!」
 狒々の皮を被る蔭刀の相談相手、奈落は気配を消しに歩み寄ってきたのだ。
 思わずは一歩後ずさる。
 先程までの高揚感が下がっていく。
 生きている人間の気配がしないこの男は油断ならない、とは思っていた。
「なぜ、貴方が……ここに」
 は腕に抱えていた荷物を胸に抱いた。
 奈落がに対して殺意を持っていることをは薄々感じていた。まさか、今ここでを殺すのだろうか。
「若がご心配されてます……」
「……蔭刀さんが……?」
 思いもよらない、言葉には鸚返しをする。
「最近、貴方がこそこそと出歩くので若が心配しているのです。ですが、なるほど……」
 奈落が抑揚のない声で言う。
「まさか、貴方が妖怪を介抱されているとは……」
「……ッ見たのね」
 狒々の下から微かに見える奈落の口元が上がるのが見えた。
「はい……。面白いものを見せてもらいました。あれは犬夜叉の義兄殺生丸。……知っていましたか……?」
 殺生丸とは、あの妖怪の名前か。何故、奈落がその名前を知っているのだろうか。それに、犬夜叉とはいったい誰だ?
「いえ、知らないわ」
「ほう、殺生丸とわからずに介抱されていたのですか……。なら教えてしんぜよう。……あの、殺生丸は大妖怪を父に持つ犬妖怪。どうやら、50年ぶりに目覚めた半妖である義弟犬夜叉に左手を切り落とされたようです……」
 兄弟で殺しあいをしたということか。だが、半妖とはなんだ。殺生丸が妖怪で犬夜叉が半妖。この奈落はにそのようなことを教えてどうしたいのだろうか。
「殺生丸は今、この奈落が近づいてもわからぬぐらいに力を落としています……。これが、城の者に知られたら殺生丸も終わり……」
 なるほど、奈落はを脅しているのだ。
 蔭刀に言われてを尾行していたというのはただの前座話し。本来の企みは他にあると言うことか。
「……何が目的なのッ」
 やはり、奈落は危険だ。
「目的など……。私はただ、貴方に忠告しているのです。……殺生丸が傷を癒したが最後。貴方はあやつに殺される……」
「……」
「所詮、妖怪と人間は相いれぬ仲。……助けるなど止め……」
「あの方は違うッ!!」
 は奈落の言葉を遮り叫んだ。
「彼は私を殺したりしないわ。……私を殺そうとしているなら、奈落!お前の方でしょう!!」
 は叫んだ。
「いったい、何の目的で蔭刀さんに近づくの……!?」
 の言葉に奈落が笑ったような気がした。
 人を馬鹿にしているかのような笑いだ。
「……様……貴方は勘違いをされている。この奈落は、貴方様のために、このようなことを申し上げているしだい……。私は、貴方を殺すなど考えてもおりません。ただ……」
「ただ……。なにが言いたい……?」
 くすり、と奈落が笑った。


「どうやら、貴方様はあの妖怪を……。殺生丸を好いているようだ」

「なッ……!」
 あまりのことに言葉を失った。
 奈落はいったい何を言いたいんだ。が殺生丸を?そんなわけがない。何故ならには、蔭刀がいるのだから。
「な、なにを言っているの。そんなわけ……」
「貴方様は殺生丸を愛している」
「……ッ!!」
「ふっ。……ですが、貴方様のお気持ちは伝わりません」
「え……」
「殺生丸は人間を虫けら同様に思っている。……貴方様の思いはむくわれない……」
 奈落の言葉には思わず笑い声を漏らしてしまった。この男は何を言い出すのだろう。
「奈落……、貴方も勘違いしてるわ。私は蔭刀さんを愛してるの……。あの、殺生丸という妖怪を好いていないわ」
 はっきりと断言したのに、胸の奥がチクリと痛んだ。この痛みはなんだろう。
「……これだから、人間は……。まぁ、良いでしょう。お早めに城にお帰り下さい」
 そう言い残し奈落は木々の間に姿を消した。
 は蔭刀を愛している。その気持ちは変わらないのに、何故あの妖怪が頭を掠めるのだろうか。
 殺生丸……。あの妖怪の名前は殺生丸か……。
 荷物を抱え直すとは急いで城への道を駆け出した。




 駆け出したを見ながら、奈落は狒々の皮を脱いだ。
 そこには、何一つ変わらない蔭刀の姿。
(さぁ……余興の始まりだな……)
 蔭刀の姿をした奈落は、その場から姿を消した。





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20071027