04、滝壺の犬妖怪








 奈落……。あの男はいったい何だろうか。
 滝壺に向かう森の中、は先程出会った男のことを考えていた。
 蔭刀は彼のことを信用しているがはあまり好きにはなれない。奈落が纏う空気は嫌な感じだ。自分の欲望のためなら何をするにも躊躇わない、そういう空気を彼はしていたのだ。
 狒々の皮で隠しているため、表情は読み取ることはできないが、蔭刀に近づいているのも何か目的があるのだ。蔭刀は純粋すぎるのだと、は思う。幼少の頃から、危険とは無縁だったのだろう。おおらかな心を持ち合わせている。純粋というのは彼の素晴らしいところだが、それは時として危険なのだ。恐らく奈落がだす雰囲気も彼は察していない。注意はしたいが、あんなに奈落を信用している彼だ。そうそう、の話しを鵜呑みにはしてくれないだろう。
「よいしょっ、と」
 石で作られた滝壺へ続く段を上がれば、の目の前に水渋きが美しい滝が広がった。壮大な滝だ。自然の姿を有りのまま曝している。
 こんな滝見たことがない。
 もう少し傍に寄ってみよう。は水が広がる滝壺へ足を向けた。その時、は滝壺の異変に気付いたのだ。
「えッ」
 思わず声が出る。
 美しい透明な水が朱く染まっているのだ。じわり、と広がるように水とは相いれぬ液体が水面を覆っている。
 その、もっとも色が濃場所に目を向ければ、滝壺に体を沈めた一頭の動物が見えた。
 そのあまりにも大きな動物に恐怖感を覚える。見たこともない生き物だ。美しい毛並みはまるで犬のようだが、犬にしては大きすぎる。
「もしかしたら……これが、妖怪……?」
 先程、蔭刀が言っていたことを思い出した。
 人でもない動物でもない。だが、が見るぶんにはこれは、大きな犬のようだ。犬の妖怪というのだろうか。
 近づいてはいけないと思うが、好奇心に負けてしまい近づくことにしてみる。
 水面を漂う朱い液体はどうやら、この生き物の血のようだ。
 近づいてみてわかったが、この動物には前足の左が斬られていた。そこから、血液が流れ出し滝壺を朱く染めていたのだ。綺麗に斬られた傷は、事故ではなく人為的にやられたことをものがたっている。この出血だ。生きてはいないだろう。かわいそうに思っていれば、の足元にあった、犬の耳がピクリと動いた。
 まだ、生きているのだ。よく、この傷で命を取り留めることができたな、と関心していれば、犬の目が開いた。朱い目は、を捕らえ一瞬にして牙を剥き出した。
 恐ろしい声が響く。
 は驚き、後退したが尻餅をついてしまった。
 明らかに敵意を示す妖怪。だが、には襲ってはこなかった。牙を剥き出し深く唸るだけだ。どうやら、傷があまりにも重くを襲う元気もないらしい。
 体を起こすこともできない妖怪。
 蔭刀は恐ろしい生き物だ。と言っていたが、には見殺すことができない。
 深く唸る妖怪は恐ろしいが、は立ち上がると数枚着込んでいる着物の一枚を脱いだ。
 蔭刀がのために与えてくれた着物だ。貴族の娘が着る高級な着物。それを、腕に抱え、自分よりも数倍大きい犬妖怪に近づいた。
 一歩近づく度に殺意の唸りが大きくなる。だが、首一つ持ち上げることができないらしい。
 冷たい水が袴を濡らし、袴が、妖怪が流した血を吸い上げ染め上がっていく。
 大量に血を流す左足に近づけば、患部が見え震えが起こった。それを隠すように腕に抱えていた着物で包み、もう一枚着物を脱ぐと、足の付け根を着物で締めた。動脈を圧迫したから、瞬間的に血液の流れ出しが止まった。明日には完全に出血が治まっていればいいが。
 いつのまにか大人しくなった妖怪を見れば朱い目がを見ていた。
 この妖怪は、奈落などより恐ろしくはない。
 は額に月の模様がある犬妖怪の耳を触りながら、そう思った。





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20071027